昭和43年10月12日    朝の御理解

御理解第77節「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ」



 「人の悪いことを、よう言う者がある。そこにもしおったら、なるたけ逃げよ。陰で人を助けよ」この77節ですね、その前の76節の一番最後んところに、「人の難儀を助けるのがありがたいと心得て信心せよ」と。ね、「助けるのが有り難いと心得て信心せよ」とある。
 又、78節です、その次。次の次。今、今日頂いておるのは77節。次の78節の一番始めのところへ「神の機感にかのうた氏子がすくない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ」というようにございますが、この神の機感にかなうということ。
 私がその、何というても、神様の気心というかね、機感。神の機感にかなうと。神様の気心にかのうた氏子になる事をまず願わにゃならん。まず、目指さなければいけないと思う。神様のお心にかなう私にならにゃいかんです。
 それにはやはり、人間と身代と達者と仰るように、その、ん、まず身代も出来にゃならん。達者にもならなきゃならん。けれども、その達者も身代もです、私はあの、頂かれるためには、まず人間が出来なければいけないと思うのです。
 あっちはなかなか人間が出来ちゃる、というでしょう。そのまず人間が出来、しかもそれが、道の教えに基づいて人間が出来にゃいかん。ね、ただ人間が出来ておるという、世間一般でいうとど、ではいかん。
 教えに基づいて、金光様のご信心に基づいて人間が立派になる。その私は、人間が立派になるということはどういう事かというとですね。まぁ色々ございましょうけれども、今日はここの77節のところから頂きますのにですね、こういう77節に(そうあれよ?)出来るだけそうしようと、こう仰っておられるその、そういうこと、ここんところが私はあの出来る人は、お道の信心によって人間が出来ていきよる人だと思うですね。
 お道の信心によって、人間が出来ていきよる。人に悪いことをよう言う者がある。ね、そこにもしおったら、なるたけ逃げよと。なるたけというところがちょっとですね、その、よく分からにゃいかん。
 なるたけとは出来るだけ、その場におったらもう逃げろて、聞くなていう事で。ところが人間のその、心の中にはね、人の悪口を聞きたいという心がある。ね、(ある、せっていな?)先生がお話の中にですね、このみ教えを頂くね、ご理解を頂く時にです、皆さん人の悪口を聞く時のような気持ちで聞いたらおかげになると仰った。(笑い)
 聞き耳を立てる。はー(そうかづめですか?)ちゅうて、もうその次まで聞こうごたる。それが人間。だからそういう気持ちでみ教えを頂くとおかげになるちいわれる。というほどに人間の心の中に人の悪口を聞きたいというものがある。
 有り難い教えの方は、ね、眠気がつくごとある。ところが人の悪口になってくると、目がパチッと覚めるようにある。というほどに悪口というものは、いわば力を持っておるのです。ね、また魅力があるわけです。
 こそこそ話しでんしよると、(じー?)とこう聞き耳を立ててからでも聞こうごとある。御理解なんかこうやって頂いております。ならご理解を例えば(じー?)と障子の外から、(へー?)と(そのそ耳をさもされて?)その人が(出られて?)おられる御理解を障子の向こうからでも聞かせて頂こう、というような時には信心がどんどん進んで行きよる時です、その人の。
 ところが自分に下さっておるのに、ご理解ですらが、(いきわきながら?)眠気がつくごたる。あーまたあの話、又あの御理解というような、気持ちで頂いてはおかげにならんて。というように、人間の心の中には人の悪いことをよう言うことも言うけれども、それを聞きたがる心がある。そういう場におったら、いいですか、出来るだけそこを逃げよと、その場を逃げよと。
 それがね、私はお道の信心でいう人間が出来ていくまず始まりだと思うです。(すと?)こりゃ大変なことなんですよ。ね、神の機感にかなう氏子になるための、これも第一歩なんです、いわば。
 出来るだけ人の悪い、悪口どんいよんなさる時には、そこからのがれようというような心。だからなるたけその場におっては、逃げよとこう仰る。だから、ここはなるたけですから、ね、そこにおっちゃならんということじゃない。
 そういう場合にです、次に陰で人を助けよとこう仰るですね。人が、人の悪いことを言う人があったらその場を逃げて、陰でいうなら、何処をどう願うか。悪口を言うておる人も助からん。勿論言われておる人も助からん。そんならその、言うておる人も願わにゃならん、言われておる人の場合も願わにゃならん事が分かります。これが陰で人を助けることです。
 人の悪口を(いうが境に?)いいなさるが、人の悪口をいわにゃいかん、いわなければならない時には、その人自身も助かっていない時なの、言うておる人も。勿論、それは言われておる人も、それでは助からない。
 ですから、言われておる人のことも願わなきゃならん。言うておる人のことも願わしてもらうというような、その有り方にならせても、ただその場を逃げただけじゃいかん。出来るだけその場を逃げるということだけでも、大体いうたら難しい。出来るだけその場におって聞きたいごとある。
 それをその場を外すということね、そして、悪口を言うておる人、いわれておる人を祈っていく、願っていくというような、私は信心が影で人を助けることであると同時に、そういうようなあり方が、いわゆる信心でいう人間が出来ていきよるとです。
 ね、信心で言うとこ、いわゆる神の機感にかのうていきよる。その神の心にかのうていきよる。神様がもしそれ見ておいでんなら、聞いておいでになるならば、確かに喜びなさるに違いはないです。そういう氏子の上に、ね・・・。
 ところがこの、なるたけ逃げよとこういう。けどもその逃げられん場合もあるし、逃げてそこを、逃げなくても自分の心に(応じない?)けれどもですね、こう何、(ならいえも?)沢山なかで話がありよる時なんかは、まぁ逃げも出来ますけれども。例えば私にその悪口を、話かけられる場合がありますよね。
 そげん時に、そりゃ悪口いいなさるなち、一遍言うとこんだあんた、相手にやかましゅう、心の(傷つけます?)だからやっぱ、やっぱり人の悪口を言うならば、そうですか、そげなこともあったですかというて、やっぱり聞いてやる気持ちも必要ですね。
 それも、それに、油に火をてんずるような聞き方ではなくて、ただ相手の方の人も、悪口を言うことによって、心が穏やかになられるなら、ね、私が聞きゃ間違いない。私が聞きゃ他所にもらすようなこともない。だから、そういう豊かな、大きな気持ちで、はーそうですか、そういう事もあったんですかと。と例えば聞いてやる豊かな心が必要。
 そして、最後に相手を傷つけないように。それでもあの人は、あぁいうよかとろこもありますもんねというような、私は表現をする。
 これはあの、助太刀ということがありますね。こうやって、二人がこう、まぁ喧嘩をしよった。それをその、まぁ負けておる、いうなら負けておる人に(?)こう助けてやる。それを助太刀という。
 悪口を言うてやる人。悪口を言われておる人はですね、(かんながら?)祈るだけじゃなくて、助太刀をする。ね、それは、そもそも悪いことを、はーそうですかと、そのまま気分が行くように聞いてやると同時にです、その後にです、その願うた人のための助太刀をしてやる。そすと、言うておった人も又です、はーこりゃ自分の考え違いじゃたじゃろうか、(いんしきだけなさんやろうか?)
 ほんにそういや、あの人のそげな(家族?)もあるもんと又、思い直してです、人の悪口を言う事が、あんまりよくないんだというようなことを段々分かってくる事にもなってくる。そういう時には皆さ助太刀を出してやらにゃいけません。
 ところが相手が言いだすと、こっちも(?)それに油に火をつけるように、こちらも一緒になって悪口を言うというような事では、もう言われておる人をさんざん、やって加勢するようなもんですから、これでは神の機感にかなわん。
 いや助けるということにならない。陰で助けるということにならない。その時には助太刀が必要。
 これはまぁ、私の妹の話ですけれども、善導寺の郵便局に勤めてもう大分になります。やはりその、ある同じ局員の方が、椛目時代でした、見えてから、もうこっちの池尻さん、こりゃもう本当にもう馬鹿の人はなかというようなことで。もう(なんてもう?)すみません、すみません私が、私、悪か事自分で、みんなその言うてしもうてから、そげんにもその、馬鹿にならんでんよかろうとこれというような、意味のことを言うておられた方が、又次に来てですね、言われるのにね、結局はもう一番馬鹿であるなら池尻さんが、郵便局に何千人かの方がおられましょうが、その中で一番幸せそうだとこう言うておられる。
 ね、もう何かそのやっぱり見よって、同じ友達の悪口が始まる。(むしろ?)その聞きよってから( ? )あっちゃあの人はあげんよかとこの、あるところにという風に、(そのへんところを?)必ず言われる。
 自分の妹のことをほめてはいけないですけども、この御理解を頂くと、まぁそのいうとておること一番の(すき?)を感じたんですけれどもね。人の悪い、悪口をですね、そりゃ聞いてやるだけじゃなくて、その覚えておるその、良いところをこう、いや助太刀をする。
 そういう心の人は、神様の機感にかなう。いわゆる人間がいわば出来ていくのだ。信心でいう人間が出来て行く。
 そこでなら結果はどんなになってくるかというと、もう池尻さんのおるところでは悪口は言わんごとなってくる。それなりに助太刀をされる、相手の。ですから、もう馬鹿らしゅうなってくる。いや池尻さんに悪口を言うたって、だからもう池尻さんのおるところでは悪口を言うたっちゃ、もうあんまり効果がないわけです。というようなことを私いつも、あの他の一緒に勤めておる方から聞かせて頂いたんですけども、あー、おかげ頂いて行きよるな。おかげ頂いて行きよるなという風に、まぁ感じました。
 それはもう、これはあの、内々でもそうです、あの人の場合は。ね、内々で人の悪口、あのどうしたら(   ?   )あの人はあげんよか(とかにち?)言うてから、言います。もうあの人の前には、皆良い人に見えるらしいんです。
 というように、やはりあとこの、まぁ(れいとう?)ですたいね。結局自分自身がやっぱりあの、立派な私にならせて頂こうという事になってくりゃ、もう皆が立派に見えてくるようになってくるわけですよね。
 自分の根性が悪いけん、人まで根性の悪かごつ見えてくるとですよ、本当言うと。ですから、人の悪口をね、人の悪口を本当にいわんで済む私にならにゃいけん。と同時に人の悪口をですね、もし人が言うような事、いわば場合は、出来るだけその場を逃げる。逃げられん場合には、いや、(道の?)そこに踏みとどまってです、その人のために助太刀をしなければならない時もある。
 いやそうしなければ、いけないと私は思うです。それが影で人を助けることになる。そういうあり方にならせて頂く事に、勤めることが信心で言う人間が出来て行く事である。(祈り?)が出来て行くという事は、そのままが神の機感、気心にかのうていくのであるから、これに身代もついてくる、健康のおかげもやはりそこに共のうて来ると私は思うのです。
 ですから、神様の心にかなうという事。ね、( ? )願わん事もない、思わんこともないですね、神様があなたの心にかなう一日でありますようにとこういう。ですから今日は、どうぞあなたの心にかなう一日でありますように。どうぞ、人の悪い口、悪口だんいわんで済む私にならせて下さい、もしそれを(聞かんようなあがな?)の時には出来るだけその場を逃げ出してもらわにゃならん。いや、そこに踏みとどまって、その人のために助太刀の一つもさせてもらわなきゃならん。
 そして、影で人を助けさせて頂けれるような一日でありたいというような願いならばね、これはもう神様の心にかなう一日になるに違いありません。しかも御理解にはっきりこう( ? )77節に教えておられるのでございますから、それが、いわば人間が出来ていく。そういうような信心を、いわゆる人間形成の(美談?)というようなことになってくるんじゃないでしょうかね。
 いや、あっちはもう、けども人の悪口どん、いやそういう事はもうない。人間が出来ちゃると。ね、いわゆる人間が、いわゆる完成していきよる。それに心がいわゆる神様に向かって進んでいきよる。
 それが、同時に影で人を助ける働きにもなる。影で人を助けよ。勿論影で人を助けよという事、又は、神様の機感にかなうという事だけがです、悪口を言わんだけが、その神の機感にかのうていくと、又沢山ございましょうけれども、これは、教え(と?)やはり(けんそん?)こと、いうておられる事は、その心はやっぱり、やはり信心によって人間をつくっていこうとする、心をつくっていこうとする者に、やっぱりこれは必要なのである。
 いわゆる人の悪口どんいわんで済む私。もしいわれておる人があるなら、助太刀でもさせてもらおうというような心。であり、影で人を助けさせてもらう。言うておる人も助かってはいない。言われておる人もなお助からない。そんなら、言われておる人も、言うておる人のことも影で祈ってやれれるような、やはり神心というものをいよいよ作っていかなければいけない。
 ところが、あの人の心の中には、むしろ人の悪口を言うて、(いっぷん?)はなしたいような心すらがある。人の悪口を聞くと、ね、それをもっともっと聞きたいような心すらがある。人の悪口ならば、それこそ、ね、聞き耳を立ててから、こっそり話ししよるだけでも、ね、盗み聞きでんしようごたる心が人間の心の中にある。
 ね、だから人間の心の中にそういう心があっては、わが心が神に向こうていく、という事にはならない。まずそういう手近な(ぶんぶ?)からですね、人間をつくっていくことのための信心。ね、又人を陰で助けるという事のための信心。又は人の悪口を言うということがいかに心を汚すことかというようなことを分からせてもろうて、反対に自分にそこ心を気付いて行くという意味合いにおいても、この77節を日常生活の上に、もっともっとよく頂いて行かなければならんのではなかろうかとこう思うですね、どうぞ。

梶原 佳行